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なんでも美しく見えてしまうメガネ

2016年01月07日

二十年以上前、グアテマラのジャングルトリップ(10日間くらいだったな~)で深い森の中を、
マチェテという長い刀を振り回して前に進んでいた、あのままがそっくり今もある。

小枝を払い、道なき道を前に前に。一歩先、一瞬先は未知、、、
細胞の一つ一つが目をガッと開き、この新たな領域を全霊で感じ取り、呼吸はややアップテンポになり、言い知れぬ生の喜びが脈を通して全身にいきわたる。

運命をただ受け入れるか、切り拓くか。 
 
このスリリングな冒険は、実際にジャングルに入っていようが、いまいが、いつだって現前にある。

 〝探している秘宝は何だい?″

声なき声は問いかける。

 〝ただ宝を見つけることだけに明け暮れてはならない。君にとっての秘宝がどういうものかを見極めることが大切なのさ″

僕にとっての秘宝

昔、ロバートハリスが言っていた。
「自分探しの旅なんかしても何も見つからない」
旅人につれない言葉を投げていた。
一理ある。

世界、日本を旅していたころ、冒険の第一ステージは確かに自分探しのようなもので答えなど何も見つからなかった。そのはず。だって、何を求めているのかさえ分からなかったのだから。質問なく答えは出ず。漠然としたお宝などいくら掘っても出て来はしない。

しかし、ロバートハリスはそのあとの言葉を紡ぐべきだったのかもしれない。
あきらめないと見えてくるもの。
ロバートハリスは「見つからない」と言ったけれど、見つかるんだ。
自分にとっての秘宝と、そこに到達するための方法が!

秘宝が何かとわかった瞬間に地図が浮かび上がってくる。

 〝ただ地図を見てそこにたどり着こうとすると、見失うことになる。プロセスがすべてだ。今、この瞬間を受け入れよ!″

冒険にはいつだって難題がつきものだ。時には大雨が襲い、時には雪で前に進めないかもしれない。誰の意図だか、そうでないのかは知らないけれど、難題というカードが切られたとき、そこが冒険の分かれ道だ。
冒険を壮大にして味わい深くさせるのは、カードをどう受け入れ、どう解読するかにかかってくる。

さて、難題というカードが、実は次のステップへの登龍門だとわかったとき、冒険(面白い文字だね、険しいを冒すだよ!)での見晴らしが全然違うことに気付く。その難題に感謝の念すら抱くことになる。
おお、この景色、これがほしかった!

自分にとっての秘宝が何なのか?と、そこに至る地図(方法)が見つかるのが冒険。
そして、その秘宝がなかなか見つからないのが冒険(何と!!!)。
そのプロセスにおけるスリル、閃き、気づきが冒険。

 〝見ようとしなければもっと楽だぜ。ほら、こっち、こっち!″

もう一人の声なき悪魔のささやき、誘惑が強烈な吸引力を持ってあなたを引き寄せたとき、ここが冒険における唯一持っている武器、魔法の杖を使うときだ。
みんなこうしている。みんなそんなこと考えない、、、
周りとの比較を始めたとき、それは甘い樹液とともにやってくる。
面倒だから冒険のことは忘れる。これは安易な方法だけれども、生の興奮が即刻そぎ落とされていく、、、。自由だ。誰も文句は言わない。ただ、生の醍醐味を、一番おいしいところをとり逃してしまうことになる。

幻想だ。自分を信じろ。
魔法の杖は、自分という地に足ついた杖そのものだと確信したならば、そんな甘い液体も分けなく跳ね返すことができる。そう、冒険は自分の存在を常に信じていることを強く求められるのだ!

秘宝をこの手に。

冒険をするならば必ず。

個々が自分の神話を紡ぐ時代が来ている。
現実(人間社会の)と言われているものは実は幻想で、ファンタジーに生きたとき、それこそがリアルなのさ。

冒険するよ!
  
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