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僕の聖書

2015年03月26日

僕の聖書、、、

僕は僕を生きながら、
実は誰もが通った道をなぞっているだけ。
これを元型という。

この元型を深く捉えると、
僕らがこの生においてどこに向かえばいいのか、
本当の意味での幸福が何なのか、
ボンヤリと、しかしながら確信を肚に感じることができる。

なぜボンヤリかというと、
結局のところ答えは自分で見つけることになるから。

この聖書は言う。

究極のものは言葉にできない、、、

このブログに何度も登場する、
ジョセフ・キャンベル
「神話の力」

聖書、経典、神話、、、
世界のあらゆる神話をふるいにかけ、
残った原石を覗き込むと、実はどれも共通したことが書かれている。
この原石を元型という。
ユングの集合的無意識がそれだ。

僕らの心の奥底には世界共通のコードが書かれている。

それを発見して、
時代に沿った生き方をすることが、
本来の聖書、経典、神話などに書かれている、本当の意味なんだ、、、

何度かに分けてキャンベルが伝えていることを抜粋してみよう

 想像されたイエスのイメージを超えければなりません。自分の神についてのそういうイメージが結局は邪魔になる。それが土壇場で障害になってしまいます。もし自分なりのイデオロギー、自分のちっぽけな思考形態に固執していると、神についてのより大きな経験が近づいてきたとき―自分がそれを受けるだけの心備えがないほど大きな経験がやってきたとき―に、自分の心のなかのイメージにしがみつくことによって、それから逃げてしまう。それは自己信仰の保全として知られている態度です。

 精神の経験はさまざまな中心、ないし原型的な段階を通じて向上する、という考えがありますね。人は飢えと貪欲という原初的な動物としての経験から出発し、性的な熱情を経て、いろいろな種類の肉体的・物理的な熟達や支配に至る。これらはすべて経験能力を強める段階です。しかしそのあと、経験が心臓の中心に達して、他人や他の動物に対する慈悲の念が目覚め、自分と相手とがある意味では同じ生命を共有している存在だと自覚するとき、精神のうちに全く新しい生命の段階が展開します。こうやって心が世界に開かれる。処女降誕はまさしくそのことを神話的に象徴しているのです。それは健康、生殖、力そして少しの楽しみといった単なる肉体的な目的を追求する原初的な動物的存在でしかなかった人間のなかに、精神生活が生まれたことを意味しているのです。だが、ここでまた別のものにぶつかる。こういう思いやり、他者との調和、さらに進んで他者との一体感を抱くということ、つまり、心のなかに新たに宿った原理―私たちが尊重し、それに仕えるべき善としての、エゴを超越した原理―との合一を経験することは、まさしく疑いもなく、宗教的な生命や経験の始まりです。そしてそれが、あらゆる時間的な存在などその影にすぎない、一者としての存在を十分に経験したいという、命をし売り減らすような探究へと人を導くかもしれません。究極的な神秘の目標は、自分の神との合一の体験です。そうすると二元性は超越され、もはやそこにはだれもいない、、、


精神活動が自分の中に芽生えた時、
道は荒くて真っ直ぐではないけれど、
勇気をもって前に進むことが自分を成熟させてくれる、、、

この一歩はとりわけ重要だ。

なんだか寂しくなる気持ちも分かる。

しかしながら精神の成熟はもたらされる。
それがあらゆる神話に書かれていて、
そのヒントを読み解くのが大切だと言っている。

さて、その冒険に、心からYES!と言えるかな?

冒険の第一条件は、自分を最大限信じられるかどうか、
ここが試される。

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