fc2ブログ

トップ

ストア哲学を現代に

2022年02月17日

深い眠りから覚めるだろう哲学がここにあります。

二千年以上前に興隆し現代再び脚光を浴びているストア哲学は、実践的で世俗に偏り過ぎた流浪の民を今一度霊的な存在として目覚めさせ、複雑に分断されてしまった現代を生き抜くうえで重要な地図となっていくように感じます。

「迷いを断つためのストア哲学」
マッシモ・ピリウーチ著 
この本を参照にストア哲学とその実践をみていきましょう。

・逆境を人生の鍛錬の場にする
 生きていくうえでぶつかる課題は自己を成長させるための絶好の機会として捉えます。これはレジリエンス(しなやかな強さへと転化する)、実存(意味として捉える)とも重なるところですがアゲインストの風はただのストレスではなく、それを受け入れて自己と折り合いがついた時、何ものにも規定されない私へと導かれるのは自分の経験に照らし合わせても真実だと思います。逆境に遭遇しても希望へと変換する速さ、センスが磨かれ、マゾヒスト的耐性がついていきます。いつでも来なさいと。
 
・主体的な行為者である
 何ものにも規定されない私、、、例えば身体に麻痺や障害を負ったとしても、それらが主体的な行為者(真の私)であることを阻害するわけではありません。もちろんその麻痺や障害を受け入れ、ゆっくりと折り合いながら主体性行為者であることを取り戻さなくてはなりませんが、それが成されたとき他の人と同じになります。むしろ健常者であれ障害者であれ主体性行為者でなければ、それは麻痺や障害に囚われているのと同じで真の私を生きていない。

 僕はここにストア哲学の真髄を観ます。執着や依存から自らを解放するという意味で真の「自由」であり、障害者であれ健常者であれ主体性行為者であればそれが本質!と説くところに真の「平等」を感じます。身体的特徴や性格の違いに何の優劣があるのだろう?僕らは自分を何かの基準に押し込めて立ち位置を決めるのではなく、そういったしがらみから自由になり、主体性行為者として胸を張って生きるべきだし、それが当たり前という社会を構築するのが今を生きる僕らのチャレンジだと思います。壊れてしまったリベラルの新たな方向性でもあると思います。

 さて、主体性行為者であるには、正しい価値観、目標、慎重さ、決断力、行動力などに首尾一貫とした姿勢が求められます。そうでなければいくつもの逃げ道を自ら作り出してしまい、言い訳の虜となってしまいます。これは麻痺していることと同じことで、その逃避から抜け出すためには、正しいことを何度も繰り返し実践し、理性的な判断が本能的な行動になるよう訓練します。これは身体知(マスターしたい行為を繰り返し、身体の動きから知を得ていく方法。こちら)と逆で、思考を反復して身体に覚えさせるという業ですね。

・コントロールできるものとできないものを分ける
 スコア哲学が頭の中のみでの哲学でなく、生活に応用できるところがここ。力の及ぶところに意識を集中させ、後は世界のあるがままに任せること。遺伝、過去、他人、天候など外的要因、結果、、自分の力の及ばないことに憂いてはいられません。そこから学ぶべきことがあるだけ。大いに学び、常にベストでその場に臨む、、、最善を尽くしていれば満足が得られ、結果を冷静に受け入れるようになります。また学び、日々、時々を大切にする、その好循環を生むには、まずはコントロールできないものを知ることです。この好循環は後ろ向きな「できないこと探し」から足を洗うことにもつながります。僕らの住む世界は可能性に開かれているのに「できないこと探し」をして自分を閉ざしてしまうのは実にもったいない。コントロールできないものがあるという事実だけです。あとは開いて背伸びしない中で何がどうできるのか?に集中すればいいだけのこと。これはすぐに実践できます。
 
・私たちは一日一日と死んでいる
 アメリカンインディアンの教え「今日は死ぬのにもってこいの日」と同じ意。スコア哲学では生物としての死から目を背けないことを重視します。尊厳ですね。あらゆる人間関係、とりまく環境に対して当たり前と思わずありがたみを精一杯かみしめる。いつかは誰もがこの世を去り、楽しむことができる「正しい」季節が終わるのは必然です。今、この瞬間を大切に。この捉え方も真の「自由」、つまり執着や依存から解放されていることを示しています。

・美徳をやしなう
 スコア哲学では最高の善を美徳においています。美徳とはヒト特有の理性と社交性をいいます。ヒトは理性によって社会を生みだし、いまだ野蛮な側面はあるものの統計的には犯罪や戦争で亡くなる人の数を減らし、豊かさを実現しているのは紛れもない事実でしょう。現状、混沌が濃霧のように覆っていますが、感情に支配されては時を無駄に過ごすことになります。世界は確実に良き方向にあるのだから(何度も荒波を乗り越えて豊かになっている)理性を働かせて何が今できるのか?を問うことを何よりも優先させたい。

 さらに美徳として社交性があります。ヒトは極めて社会的な生き物です。一人では生きられない。むしろ他者を助けることで自らも生きるという戦略を培ってきました。その社交性をストア哲学では最高の徳と位置づけますが、世俗に偏り過ぎたがために忘れてしまった大切なものなのではないでしょうか?
 家族・親族に対する思いやりを友人、知人、人類全体に広げること。Be kind! 社会にとって良いことは自分にとって良いこと。自分にとって良いことは社会にとって良いこと。これを両立させるために日々美徳をもって実践することが、生きること全てのベースにある。そんな生き方が明るい未来を創っていくのだと共感します。

 政治もすでにコントロールできるものから遠く離れてしまいました。選挙で変えられるという希望は過去のものになり、コロナ禍において自由、平等が全体主義へと簡単にひっくり返るような現実を目の当たりにしています。僕はしばらくは何を主張しようとも、この分裂を止めることは不可能だと見ています(いずれ極に振れて瓦解するのを待つしかないのかなと)。これをストア哲学的に解釈するならば、政治はコントロールできないものとして憂えず、自分のできること、つまり美徳に照らし合わせれば、身の回りの人に気を配り、親切に接することを徹底するのが、自分の力の及ぶところのベストなのかと思います。

・この教えに対して異議を検討しよう 
 これもスコア哲学の魅力ですね。今正しいことでも未来のヒトにとって違うのならば修正していくための余白を与える。原理主義に賞味期限があることは変化という自然の理をみれば明らかです。開かれて寛容である、それが自然への謙虚な在り方なのではないでしょうか。

 ストア哲学は今すぐに人生のあらゆる場面に応用できる実践的なものなので、現代をサバイブするにはとても有用です。


スポンサーサイト



このページのトップに戻る

無と意識の人類史 

2021年11月30日

僕らはどこへ行こうとしているのか?

この究極の問いにフルスイングで応えたい。
なぜならば、今立つべき時だから。

これは永い時間軸での話です。

これまで二度、ヒトには霊的に大きな成長があり、いよいよ三度目の飛躍を迎えています。

一度目は五万年前、狩猟採取のころ。ラスコーの洞窟など、絵画、装飾品、彫刻など芸術的な感性が一気に花開いた時があります。ホモサピエンスに「こころ」という領域が生まれた瞬間です。これはヒトという特殊なものになってしまった瞬間でもありますね。ヒトにとって欠かすことのできない歴史的な出来事。これを「心のビッグバン」と言うようです。

二度目は紀元前五世紀前後。今から2500年くらい前、仏教、儒教、老荘思想、ギリシャ哲学、キリスト教につながる旧約思想が世界同時多発的に生じたたとき。どれも部族を超え、物質的な欲望を超えて新たな価値、倫理、宇宙観を説いたのは共通するところです。これを「枢軸時代・精神革命」と言うようです。

そして三度目、、、

「無と意識の人類史 (私たちはどこへ向かうのか)」
 広井 良典 著 

DSC_2319.jpg


この本は、その三度目の霊的な飛躍の到来を示し、著者による新たな世界の観かたが提案されていて、かなりチャレンジングな本となっています。
スピリチュアルに興味があり、科学的、論理的なアプローチを好む方は必読の書です。
「有・無」「生・死」、意識の捉え方、宗教、経済、歴史、物理学、生物学、神話学、、あらゆる角度から従来の認知の仕方や宗教観の限界を示し、複雑になってしまった世界の壁を越えてどのように新たな未来を創造するか、、、この手の話が学問の世界から出てきたというのも興味深いところです。

さて、二度の霊的な飛躍の背景には、それぞれ狩猟採取社会と農耕社会が興り、その方向性は成功したものの、急激に人口が増え、開発が進んだことによる環境破壊がおきて、ある種の資源・環境制約に直面したことがあります。そこで著者は、

”外に向かってひたすら拡大していくような「物質的生産の量的拡大」という方向が環境・資源制約にぶつかって立ち行かなくなり、また資源をめぐる争いも深刻化する中で、そうした方向とは異なる、すなわち資源の浪費や自然の搾取を極力伴わないような、精神的・文化的な発展への移行や価値の創発がこの時代に生じたのではないか”

と推測し、現在との類似性を説明しています。それは、ここ200~300年の間に加速した工業化ないし産業化の大きな波が飽和し、人口が急激に増加したことで、再び資源・環境制約に直面しているというものです。

”狩猟採取段階における「心のビッグバン」や、農耕段階における「枢軸時代・精神革命」に匹敵するような、根本的に新しい思想や価値原理が生成する時代の入り口を私たちは迎えているのではないか”

これは過去のデータから推測できるという可能性の話でもありますが、自分も「現状」という有力な手掛かりから、今まさに霊的(著者は霊的という言葉は使っていませんが)な成長を要求されているように感じます。
コロナで可視化、加速化していることですが、世界は分断されて細分化し同じ思考回路では解決はおろか、より分断される方向性が見えています。これは何百年後歴史によって後世の人たちが分かることですが、いずれにせよどこかで飽和点を迎えることでしょう。
ただ、ヒトは困難を乗り越えてきたという歴史から見ても、どこかにその飽和点(滅亡ではなく)があり、霊的な飛躍によって正しく方向修正されていく作用が起こります。

その作用が始まっているのです。

なぜ飽和点を迎えようとしているのか、もう少し説明してみます。
著者によるとこれまでの思想に共通する「無限性」という設定に限界があると論じています。

私たちはどこへ向かうのか?
今のところ、この問いに関しての有力な未来予想図として、レイ・カーツワイルの「シンギュラリティ」(こちら)や、ユヴァル・ノア・ハラリの「ホモデウス」が本書でも挙げられています。
無限の欲望ゆえ、「永遠の意識(AI)」「肉体の不死(ロボット、再生医療)」などが拡張されていくことなり、不死が手の届くところにあるかのような不気味な未来をリアルに想像しています。

このホットな未来予想図に疑問を呈しています。
17世紀のヨーロッパで近代科学が勃興した時に、脳の解像度として得た「無限性」に対して果たして世界のすべては「無限」で成り立っているのか?という、原初的な疑問です。

17世紀、古代から中世において支配的だった「閉じたコスモス(限定的な世界観)」から「無限宇宙」への世界像の転換が興りました。
それは意味が脱色され、中心性が失われると同時に、個人は機械的な「無限宇宙」の中でふるまう存在として位置づけられました。その果実として近代科学が成立し、今の生活に至ります。この世界像の転換こそが現在につながる生活の質の飛躍的な向上につながったのは明らかでしょう。

同時に資本主義が台頭してきたのは同じ源流です。
資本主義は無限の資本蓄積が優先されるシステムで、限りない拡大・成長が担保されて初めて成り立つものだからです。
筆者は触れていませんがお金そのものにおいても限りない拡大が起きています。
制約的な物々交換から、金という希少価値の高い金属の貨幣との交換へ、金本位制度から信用へ。信用の制度はレバレッジ(少ない掛け金で何倍もの投資を出来るシステム)へ、もう政府の信用などいらんということでビットコインが生まれてきたのは、いかにも留まるところを知らない無限の欲望の行きついたところと言っていいでしょう。無限の拡大、無限の成長、、、僕らの思考には当たり前に組み込まれていますが、この欲求の背景には常にパイの総量が無限にある、という前提があります。本当にパイは無限なのでしょうか??

個の自由も無限へと解き放たれています。近代以前「自己実現」が贅沢なことであったのに対して現代、自由・権利という標語において個の欲求が際限なく担保されています。
技術によって不死を得ることでヒトは神にも近づくと言われています。

ところが、この留まることを知らない無限性、際限ないヒトの欲望は地球資源のみでは解決できそうになく、宇宙まで触手を伸ばそうとしています。著者は地球内で解決できない話が宇宙に広がったとしても問題が収まることはないと断言しています。その通りでしょう。
大地から刈り取った資源を湯水のように使って、足りないものは外から持ってこようという発想のまま持続可能が成り立つのか、今、ヒトが熟慮すべき時だと思います。

そこで著者は、
・人間の生(個人の人生)の有限性
・地球環境あるいは経済社会の有限性

という二つの、ごくごく当たり前の自然の形態から、有限性という自然観に立ち戻り新たな価値を創造する転換点に立っていると述べています。
それに呼応するかたちで近年、人文社会科学や自然科学などから「協調行動・利他性・関係性」に関心を向けた研究が一気に沸き起こっていることに着目しています。

・人間の脳が進化する過程において他者との相互作用や関係性こそが決定的な意味を持ったとするソーシャルブレイン論、ミラーニューロンなどにみられる脳研究

・人間の病気や健康において、他者やコミュニティとのつながり、格差や貧困、労働の在り方といった社会的な要因が極めて大きな影響を持っているとする社会疫学

・ヒトとヒトとの信頼やネットワーク、規範といった関係性の質に関するソーシャルキャピタル

・ヒトの身体や社会的な成り立ちを解明した進化生物学

これらの台頭が新たな世界観の可能性として、多くの科学者や哲学者が集合的に着目している表れとみていいでしょう。目には見えないけれども、すでに無限性から有限性への路へと歩きだしているのではないでしょうか。

マズローの欲求五段階説という心理学の理論があります。こちら
ヒトの自我がピラミッドのように五段階に分かれているというもので、その頂点に自己実現があります。トランスパーソナル心理学をはじめ、ニューエイジ勃興のころから現在のスピリチュアルブームに至るまで盛んにこの自己実現の先に自己超越があり、身体を超えた意識の無限なる領域こそヒトの旅路(叡智)の終着点で、どのように到達するかが説かれてきました。ハイヤーセルフなど同じ文脈にあると思います。

ところがここにも疑問が生じます。
果たして、ヒトの自我の拡大はとことん個人的なものなのでしょうか?
これはリバタリアンというイデオロギーの世界でも同じことが言えるのですが、個の自由・権利はどこまでも社会から離れた独立したものなのかという問いです。

地球という有機体の一つの歯車に過ぎない未成熟なヒトの、個々の自由・権利は無限に謳歌できるとするのは本当に正しいのでしょうか?

時代を逆行しようという話ではありません。
現状の世界をみるに限界があり、最たる原因が「無限性」という設定にあること。それには「有限性」という設定に置き換えて新たな世界観の創造を始めるのが重要だということです。

僕はここ何年か進化生物学、進化心理学などの最新の科学を学ぶ中で、利他、協調というヒトが社会を形成し、生き延びるために養ってきた他者への手助けが何よりも重要だと考えるに至りました。とことん社会的な生き物であるヒトが一人で生きていける訳がないからです。
それを可能と錯覚させるのがテクノロジーで、「永遠の意識」「肉体の不死」が手に届きそうなところにきているのですが、実現できるのは格差の頂点に立つ一部の人間だけです。お金があれば宇宙に行けるみたいな感覚で、その領域に足を踏み入れることに倫理的なジャッジがないのはとても危険に感じます。

ですから筆者の訴える、「有限な環境の中での、無限の創造」という切り口や、現代、思想の枠組みを大きく転換していくターニングポイントだということに大きく賛同します。

ここまで書いてもまだ本書を説明するには半分にも達していません。
以下はこの本のいくつかの主題を要約するにとどめます。気になった方は読んでみてください。
自分の生半可な理解で書き綴っても話が高度で中途半端になってしまうことと、著者の価値創造には共感するものの、また違う角度での実践方法を想い描いているからです。

・無へのアプローチ
 これまでの無の概念とは?死は無なのか?無と有は非連続的なのか?
枢軸時代・精神革命における「無」の捉え方を宗教、哲学、物理学から眺め、「新たなアニミズム」という切り口から再融合を提案しています。

・生と死
 「生=有、死=無」として死の側を視野の外に置いてきた近代的な見方に対し、生と死をひとつづきの連続的なものとして捉えることで、死をもう一度この世界の中に取り戻し両者をつなげることが新たな世界創造において重要だとしています。「生と死のグラデーション」と題してその連続性を綴っています。

最後に、新たな世界創造において、どうしても「地球」というコンセプトを避けられないとして「地球倫理」という思想のエッセンスをいくつか挙げています。

 地球資源・環境の「有限性」を確認すること
 地球上の各地域における風土の相違に由来する文化や宗教の「多様性」を理解すること
 それらの根底にある自然信仰を積極的に捉えていく

グローバリズムからリージョナルへ。
一つの大きな神が、一つの物語りを携えて、全てを包み込む、、、
そのような理想にはまだ到達しえないということですね。僕らはそのプロセスにあり、ヒトの旅路はまだまだ先が長いということです。無限性どころか完全性を一度脇にやり、不完全であるという自覚からスタートし直すのが良いのでしょう。
時を性急に求め過ぎると痛い目に合う、それが今気づくべき最たるものだとこの本は語っています。
コロナという事象は一呼吸置き、左右を見渡す大いなるシグナルではないでしょうか。

新たな時代へ。
行動を起こす時です。

次回は自分なりの価値創造を書いてみます。


このページのトップに戻る

身体知

2021年05月24日


「頭で理解する(言語化する)前に既に手が知っている、、、」

先日SNSでパスタ打ちを始めた方が技の習得についてこのようなことを言っていて、何か自分の中で揺れ動くのを感じたので、しばしネットに潜り込んでいました。

というのも、その”身体が先に知っていて言語化されるのはずっと後になってから”、という経験が自分にもよくあったからです。ソバ打ちに始まり、農作業、大工仕事、生活のあらゆる場面でよく出くわしていたものの、モヤッとした感覚のまま理解に至りませんでした。幸運なことに人の気づきをとおして可視化できたので夢中でこの現象を調べていると、一つの言葉に突き当たりました。

身体知

手探りでここにたどり着いたものの、いきなり開けた場は広い学問の世界だったので、この分野の第一人者、諏訪正樹さんの著書と身体構造の進化を統合しながら捉えていきたいと思います。

DSC_1229.jpg


身体知とは何か

例えば蕎麦打ちの伸しという、大きな団子になった蕎麦を薄く伸ばす行為があります。丸い棒で薄くしていくのですが、最初のうちは厚くなったり、あるいは薄いところと厚いところが顕著だったり、素早く出来ずに乾燥させてしまったり、数多くの失敗にさいなまれます。
どうしたらうまく伸せるのだろうか?

その時点では、ああしたらいい、こうしたらいいという次につなげる言葉での理解はありません。ところが、部分的にも良かったところの感触は残っています。「あの感触」みたいなボンヤリとしたものが潜在の奥深くに佇んでいて、意識にすら登っていない状態です。
次のチャレンジで、うまく伸したいという気持ちはあるものの、どうしたらいいか?という明確な指針のないまま、前に向かって伸そうとします。そこで前回部分的に上手く伸せた感触が引き出され、さらに手ごたえとして薄く伸ばせる瞬間があったとしたら、ん?となります。それもまだ言語化していません。
その感触を手掛かりに、何度もトライ&エラーを繰り返す中でようやくこれだ!と意識上に登り、そこから、ああ、こういう動きをすればいいのか!と言語化されていくのです。

これはスポーツでも同じですね。上手くいくコツというものは身体が先に捉えていて、何度もトライ&エラーを繰り返して、そこから上達して、さらにそこで言語的な理解になります。

身体はすでに知っている。
身の回りの環境との物理的な相互作用によって引き起こされる感覚。身体はどうしたらいいかを暗黙的(前言語的)に捉えているものの、最初はモヤッとした信号だけが発信されます。何度も繰り返すうちに身体は正解を反復し、抽象的でモヤッとしていた感覚を顕在化させ、それを脳が認識して意味づける、言語化することが身体知ということです。

動作を起こすことで環境と摩擦することから生まれる感覚とbetter than は何だろうかと模索するマインドが働いて、動作を反復することで知を得る、、、

これは「思考」についても同じような結論が得られています。

・思考と呼ぶものは進化の過程で動作が内在化したもの
・投げる、走る、飛ぶ、泳ぐなどヒト特有のバリュエーションに富んだ複雑な動きや活動が脳の発達を促した

近年興隆する進化生物学では思考は動作から生まれたとしています。
つまり、知、思考と呼ばれるヒト特有の脳の使い方はバリュエーションにとんだ動作から生まれたということです。
同時にbetter than 、今より少しでも良くしようというマインドがあるかは重要で、複雑な動作とbetter than のマインドが脳を進化させたと言っていいでしょう。

better than
これ良いですね。
このプリミティヴな知・思考の成り立ちをみると、better than 、日々少しでも成長しようとすることが、そもそものヒト(あるいは全生物の)の生の原動力で、それが自分事であろうと社会のことであろうと、三日で三歩、そこで二歩さがることになっても総体として成長していれば、まずは良しと捉えることができますね。誰と比較することなく、その場で自分なりの花を咲かせれば進化の観点からするとオーケーなんですよ。
どうしても完全性から物事をとらえる癖がヒトにはあるようですが、better than は不完全性が前提としてあるので容易に正義や真理を語ることはできません。
人それぞれ。少しずつでも成長していれば良いじゃありませんか。

話がそれました。
身体知、知の獲得はこのように身体から発生したのですが、大脳新皮質を巨大化させて生物的ニッチを広げていったヒトは、知の獲得の方法すら独自に進化させていきました。文字を開発し、印刷技術を発明し、インターネットから瞬時に知識を引き出して獲得するまでに至りました。

初めは実体のある身体を原資として知を得ていたものの、それは紙など他の物質に置き換えられ、ついにはネットという実体、物質的なものから切り離されたところで知を得る方法へと変化したということです。身体的には指と目さえ動かしていれば知を得られます。将来的には脳波の信号だけで知が得られる流れですかね。

お金にも似たところがあります。
最初は物々交換。大きな穴の開いた石や金銀銅などの物質に置き換わり、金本位制という紙幣だけでなく担保として金が交換されていたものが紙幣だけになり、今や仮想通貨へと急速に実体から遠ざかっていこうとしています。

つまりはデータ(情報)に全てが集約され、それと反比例するように身体(実体)から離れていくというのが現在進行している知のカタチなのです。

それはユヴァル・ノア・ハラリが「ホモデウス」で描いたように、データ至上主義という新興宗教が勃興し、「私のことを私以上に知っていて、私よりもミスを犯すことの少ないアルゴリズムがあれば充分」となり、人間中心からデータ中心となり人間が主役から(自ら)外れていく、、、これは個の自由を受け渡すという行為そのものですが、その技術がすぐそこまで来ているのは事実で、かつ急速に迫っています。

現実性の高い未来像ですが、そんなおり僕らは実体から離れていくどころか主体をも明け渡して浮遊する、生きる屍のような存在になっていきそうです。とにかく人類のゴールがそんなところだったのか?と驚嘆するような方向へ進んでいることは確かなようです。

これは危機ですね。
ヒトが巨大な化け物に魂を抜かれてしまうのではないか?という危機。魂というのはここで言う主体性のことです。つまり、ヒトが欲望の先に作り出した文明(集合知)という巨大な化け物が、ヒトを骨抜きにしている、というのが現実起こっていて、それは加速度的に進んでいるのです。危機の中の危機。沈黙の臓器がごとく、気づいたら手遅れです。

正義とか正しさとか語ってる暇はありません。それは目の前を曇らせるという化け物のお得意なトラップです。分断して統治(devide and rule)する、いつものやり方、、、これまでは支配者の得意芸のように言われてきましたが、そうではありません。そこここに存在する僕らの脳が作り上げている集合的なやり口なのです。

だからこそ、今、その巨大な化け物を蹴散らさないといつものように堂々巡りという罠にはめられ、テクノロジーの発展により、僕らは僕ら自身の手によって魂を抜いてしまう。

手強い大きな大きな相手を蹴散らすことは容易ではありません。
いつものように集団で拳をあげることなどナンセンス。
相手は自分の脳からアクセスする集合的なものなので、あくまでも鏡に映る自分から手を付けないとゴングは鳴らないのです。

「カーン!」

そこで身体知です。

こういう作業はいつだって地味なものです。次元を突き抜けた特効薬などなく、まずは原点に立ち返りたい。

さて、水平思考でも書きましたが(こちら)、僕らが巨大な化け物によって奪われつつあるものが何なのか、そこも明確にすることで戦略が見えてくるので、大きく4つの戦場にて劣勢にあることを確かめておきましょう。

・時間   「モモ」が時代を先駆けて型だしをしてくれました。そうです、時間泥棒は巨大な化け物の手先そのものです。速く、速く、知識をかき集めて(すでにアルゴリズムに集めてもらっている)明日には結果を出す、、、生産性という名のもと、遊びという名のハンドリングの10時10分が消失し、ちょっとした凸凹にもひたすら反応してしまう。陽はいつものように昇り、広大な空のキャンパスに沈みゆく陽の色使いもいつものようだけど、近年、脳内での時間の捉え方だけがとてつもなく速くなりました。そう、これは巨大な化け物の仕業です。

・自然   水平思考において書いた通りです。巨大な化け物は自然からヒトを引き離し、生物としての孤立を企んでいます。僕らの腸内には1000種類100兆個の細菌類が住んで、持ちつ持たれつの関係をおそらく多細胞生物となったときから育んできているのです。それを善玉、悪玉と分断して、これまた例のやり口で悪玉をせん滅できる気にさせられているのですが、その悪玉たるものを増やしているのは僕ら自身の食生活ですよ。決していい方に向かないマッチポンプ(最終的には薬)にて踊らされていることに気づきたい。気に入らない、何か僕らに障害を与えるような生物、現象をせん滅させようとする、永遠に終わらない戦いを強いられているのは、そう、これも巨大な化け物の仕業。100対0の完全試合なんてあるわけないじゃないですか。
自然を支配するという愚かなマインドをすて、今一度輪の中に入れてもらえるよう頭下げていきたいところです。

・主体性   前回の記事に書きました(こちら)。知識、情報があまりにも氾濫して、何を語るにしても「私」が党派性や属性などを帯び、主語が大きくなっています。さらにはハラリの指摘するように合理的なアルゴリズムに私の判断を任せれば安心ということになる、、、私はどこ?
巨大な化け物の完全勝利はまさにここにあります。ここは問いですね。大きな問いです。個的な思考よりも全体的な思考に収れんする、、、デジタル版全体主義へと移行しているってことでしょうか、今は一見分断しているように見えますが、先ほど書いたようにそれは小分けされたリングでのやり口(戦わせ方)であって、そこにエネルギーを注力させて本質を曇らせるという作戦に過ぎません。
主戦場はこっちです! 今私が感じていること、ここに立ちかえって一人称、ナラティヴを語ることが求められているのです。

・身体性   「われ思う、ゆえにわれあり」デカルトの名言ですね。この号砲で科学の時代が花咲いたわけですが、問題は、身体ですら機械のように切り分けて理解できるとしたことです。今ある私を精神と身体にわけて、身体は客体として切り離すことが可能になったのです。当然、その見え方の革命によってさまざまなことが理解につながっていき、生活の向上につながっていくのですが、身体は数値として理解され、今感じている私よりもはるかに信頼を持つようになりました。
切り離された身体は今やバイオテクノロジーの技術で新しく作り変えることができ、フェラーリのようにもSUVにもベントレーにも好きに乗り換え可能なのです。お金さえあれば。
そしてその先にある化け物の狙いはズバリ快楽です。痛み、苦悩を伴うという一番身近な物質である身体を切り離してしまえば、あとはドーパミンやエンドルフィンなどの快楽物質を注入しておけば万事オーケーということです。身体を持つことすら苦痛、、、ともなりかねません。

ここに上げた4つの主戦場では、テクノロジーがリードして、コトの良し悪しを捉えるよりはるか先にて次の技術が投入されるので、なすすべもありません。
さらに巨大な化け物は苦痛、苦悩、苦役を取り除いて快楽を増やしてやろう、という強烈な誘惑で僕らを引き寄せてきます。今や商品、広告などは報酬系という脳内の快楽物質をいかに出させるかという研究から生み出されているので、消費活動という渦の中でヒトは巨大な化け物にえさを与え続け、さらに巨大化させているのです。

・・・

疲れますね。
間違いなくもっと楽しい世界ありますよ。

このブログは巨大な化け物とのレジスタンス運動そのものです。それは一人一人、個々でナラティヴを語り、自分なりの世界観を創り上げることでのみ道が開けるという運動。予定調和はありません。ただ、そのナラティヴの公約数的な要素がまとまり、あらたな集合知が生まれる可能性は秘めていると直観しています。これも僕のナラティヴ。
夢か現実か、そんな境があいまいになっている(いく)今だからこそ、新たな世界を模索したい。

さて、身体知は「今私が身体で感じていること」というごくあたり前の一人称を何度も繰り返すのですが、そもそも「身体で感じている」時間が圧倒的に少なくなりました。
そのはずです。身体で感じる、とは環境との摩擦によっておこるので現代の少ない動作では限界があるのです。
先にも書いたようにバリュエーションに富んだ動作によって脳を発達させたことも考慮すると、多彩な動きをして、それを身体で感じることがひいては知識偏重(無動作)となった脳の使い方を健全な方向へ戻すことができます。

脳の使い方のリバランス。

大事なことはどんな感じがしても構わないということです。
すぐに断定しない。すると因果を素早く悟ろうとして余計な主語が入り込んでくるので、一人称が薄れていきます。身体に起こるボンヤリとした感じ、これを大切にして、その動作が繰り返されることで浮かび上がってくるプロセスを観ていく。その際立ったところで認知、言葉を与えます。

情報処理をするだけの脳の使い方は限度があるし、速さを求められるゆえ心理的なストレスを生みます。身体から沸き起こる何か?これを育てて知に変換する、、、この作業は時間がかかりますが、長い年月をかけて創り上げてきた身体の(ヒトたる)システムなので、脳にとっては優しく、癒しを得ることができます。

ここで生産性という、時間を自ら速めてしまうマインドセットからエイッと降りましょう。時間の捉え方とは脳の作用そのものです。僕らの脳はヒトへ進化するもっと前、旧脳で生きていたときは光が時でした。視交叉上核と呼ばれる、光を感知して一日の生活を成り立たせるための場があります。メラトニンを松果体と連帯して放出し、サーカディアンリズムという身体の生理的な一日を作りだすのですが、脳には時という概念はなく光の作用、加減が生を形作っていたのが始まりです。
知や思考によって大脳新皮質を大きくさせてヒトは文化を育んでいくのですが、時間も大脳新皮質が作り上げた社会性を紡ぐ一つのツールとして大きな影響を与えるようになりました。
そう紐解いていくと、時間の概念はいかようにもなる、ということにもなります。おぼろげな社会的通念としての時間があるだけです。
生産性に軸足を置いて、それが幸福だと感じている人はいいでしょう。もし、そこに疑問があったり、心理的な抑圧を感じているのならば、時間のマネジメントを見直すのは社会の混乱期にある今、重要な選択なのではないでしょうか?今は自分の声を大切にする時です。

実践をいくつか。

料理はおススメです。
包丁での具材の切り方、その姿勢。食べたときの具材の大きさやカタチ、味の内省、、、
多くの場面で身体から知を得ることができます。僕の場合、そば打ちは高い技術が要求されるがゆえ、身体の感じからどう面前の壁を超えるか発見が多くありました。
皿洗い、掃除、ごくありふれた生活の一場面でも、身体にフォーカスし、better than いつも少しでも向上しようというマインドがあれば身体知を深く味わうことができます。

高い技術が要求される手仕事やスポーツを始めるのは一案です。楽器もいいでしょう。
農も四季を通じて多彩な動きがあるのでとても充実します。身体だけでなく自然との対話も必要となるので知の奥行きを味わうことができます。

身体を動かして身体を感じ、better than 少しでも向上を目指すこと。
そこには唯一無二の「私」という主語が存在します。
塵のようにたまってしまった、本当の私を覆い隠す知識を断捨離して、身体から生じる私の源泉を見つめなおす、、、

巨大な化け物が創り上げようとしている虚構に立ち向かい、ナラティヴを語るときが来ました。


このページのトップに戻る

一人称でナラティヴを 

2021年04月19日

真理の探究は尽きない。
探求だけが自分の存在意義です。
とても惹かれてやまない。

心していることがあります。
それは自分自身で見つけるということ。

たとえハートに響く強烈な教えがあったとしても、それは9合目までのことで、そこから頂きまでは自分の足跡を刻むことでしか御来光はのぞめないということです。

仏陀とキリストに共通する、とても大切な真実があります。
それは、既存の社会、政治、科学、権威、叡智、、、すべてに対して「本当のところどうなんだろうか?」と疑問をいだき、真理を求めるため独り旅に出たという話です。
社会から孤立してしまう恐怖、、、強い意志がないと到底克服できるものではありません。

言い伝えられている教えも大切ですが、この真実に重きを置きます。

私は何者か、人生の意味とは何だろうか、死後どこへ行くのだろうか、、、
このような霊的な問いこそ人に与えられたユニークな生の課題と言えます。この霊性(スピリチュアリティ)をもつにいたったのは人の進化の最も謎なところで、そこに迫ろうとする内的な旅への誘いは各々に内蔵されたコードとして、現在も深い心理の海の底で煌々と輝いているのです。

霊的な旅は、「本当のところどうなんだろうか?」という問いから始まるので、第一歩から独自の道を進んでいるといえます。現代は科学によってさまざまなものが見えるようになり、それに反比例して神の姿がおぼろげになってきているものの、双方合わせて解像度を高くしようとしても、全ての包括的な正しさを発見するには至っていません。少なくとも僕にとっては、、、

さらには無常という確たる事実もあります。
理解したと思っても、瞬間、すでにその像は過ぎ去って新たな世界が進行するゆえ、言葉をもって現在進行している全体を言い表すことは不可能だということです。

つまり、死ぬまで真理を追い続けて問いを発する(問いの質を高める)ことが理なのではないでしょうか。生きる限りは成長を求められている、ということにもなりますね。

世界を余すことなく照らすような真理がある、という前提よりも、そこにたどり着こうと独り追い求める姿勢や、「考え抜く」ことこそ価値があり、生に輝きをもたらしてくれる、、、霊的な旅の本質を僕はこう捉えています。問う姿勢にこそ求めたい。

一世一代、現世一代の旅を良質なものに。
このミラクルな生の感覚を堪能するためには、霊的な旅に出てナラティヴ、自身のワンダーな物語を創造することだと思います。

私自身の物語を創造する、、、
それは一人称で語るということ。
この「一人称」、これから始まる新たな時代にとても大切なワードとなっていくと感じます。

このブログは本の紹介をはじめ、咀嚼した自分の言葉を大切にして書いていて、自己解釈が多分に混ざった、時に偏ったものとなっています。誰に媚びることもなく、その時々の「なるほど!」を書きたい、と感じて書くのですが、まあ、かなり尖った一人称といえると思います。青臭く恥じらいもなく。飾った時点でウソが入り込むので、素を大切にしているところです。

これは極端なところですが、
なぜ一人称が大切かを説明します。
それは霊的な旅が至高のものだからなのですが、時代の要請でもあるからです。

社会的に身につけてきた自己防衛装置、比較して他人よりも優位に立たせるような知識、意識・無意識に支配されているもの、属性、党派性、、、社会を基準(教育に始まる全ての私を規制する)として身につけてきた分厚い服は私を覆い隠そうとします。そこには本当の私(一人称)というより多勢の正解みたいなものを反映した社会的な称が多重に漉き込まれているのです。これを多重称と呼ぶことにします。

社会は多くの見知らぬ人たちが一定の合意に至るのには有効に働きますが、それは文明と同様、賞味期限があります。
特に、現在ほころびがあちこちで見えてきて、分断、分裂が激しく引き起こされている中、そもそもどう見ても現代の人間が成熟しきったとは言えないのに(自分も含めてですが)、そのような社会の枠組みの中で多重称という主語で語ることにリスクはないのでしょうか?

知識は便利なもので、それが何か?の判断を迅速にさせてくれます。
現代、情報が氾濫して分かった気にさせてくれるのですが、誰かが言っていたという経験なき理解も同様に多重称になり、私が主体的に理解した、という実感が置き去りにされてしまいます。不安とは将来の糧がどうか?というのもあるでしょうが、主体が置き去りにされているという実存の消失も大きな不安要素です。未来はよりヴァーチャル(経験なき理解)に進むのは自明です。
科学テクノロジーの進歩は神の姿をおぼろげにしていますが、それは同時に人の主体をも溶解させようとしています。

気づきにくいかもしれませんが、多重称が増していくということは、主体性が危機にさらされるということにもなります。

今は社会の混乱からそっと背を向けて、自分の認識にある社会というフレーム、事物の見え方、捉え方を脇に置き、多重称となってしまった主語を一人称にしていくのが大切なのではないでしょうか?

もっともらしい誰かの意見や説をそのまま自分のものにするのではなく、自分自身で考え、咀嚼して自分の言葉に転化させる、、、社会の合意すら疑ってかかるのです。確かに嫌な行為です。しかし純粋な心と思考を止めるのは紙一重です。

独りになる時間を設けて私自身の物語を紡ぐ。
それは決して孤立ではありません。
元来ヒトは社会的な生き物なので、協力や協調なしでは生きていけません。それでもなお、私たちは内蔵されたコードによって独り追い求めていく宿命なのです。


次回は、「身体知」という古くて新しい観点から一人称について書いていきます。
情報に偏った知識の獲得から、身体を通して発見する深い知、暗黙知へ。
それには一人称が最も重要とされます。

このページのトップに戻る

福島は語る

2021年03月10日

早くも10年がたちました。
犠牲になられた多くの方々に哀悼の意を表します。
自分自身、何よりもこうやって生きていることに感謝しかありません。一日一日この尊い生を大切にし、周りの健康、幸福に少しでも寄与していこうと想いを抱いています。

あれから10年、、、
東日本大震災は自分の行動の根底にある思想(無かったのかもしれない)を大きく揺さぶりました。
紆余曲折ありながらも生きる道を大きく変更し移住したことで、自然のありようについて深く教えを乞うことができています。その気づきは至極当然のことなのでしょう。しかし、何でも当たり前にあることが、その大きな恩恵を見えなくさせていたようです。地球から無償で与えられていたことに対してあまりに甘え、過剰に刈り取りすぎていることに気づかされました。

これから再びハナムスビを活動させていくうえで、地球環境(今や宇宙ゴミも深刻化。スペースデブリ)と子どもたちの未来については欠かせない課題となっています。

東日本大震災は原発のことだけではないけれど、震災後いわき市にボランティアとして入り、その後相馬市といわき市を何度か行き来したことにより、自分の行動哲学が大きく変化したので、その感謝と共に、あの時受けた衝撃を書いてみます。


震災から一か月後、僕は仲間三人と共にいわき市へ向かいました。
居ても立っても居られなかった。動機は単純です。リスクある発電(東電圏内の住人のための)を他人(東北)に任せておいて、実際にコトがおこったら知らぬはできなかったから。
初期被ばく、長期被ばく、線量の比較、もろもろ勉強して、物資をつめこんで出発していました。

ここで三つ大きく感謝をしなければなりません。
一つは妻に。
その八か月前、娘が誕生し、この事態に対する不安も大きい中、何度も送り出してくれました。
無鉄砲と言われればそればででしょう。不測の事態がおこることもあったかもしれない。でも、そこに行くことを優先した。それは僕のワガママに尽きる。正義感といえば聞こえがいいけれど、そこに行って自分のできることをすることが全てでした。
この学びを家族、あるいはこれからの行動に生かしていくのみです。
大きな学びだったので、それを可能にしてくれた妻に感謝します。

二つ目は仲間に。
いくたびに声をかけ、多くの仲間が二つ返事で前向きに乗り込んでくれたのはとても心強かった。仲間と実際に起きていることをシェアできたのはとても有意義でした。

三つ目は赤井の皆さんに
いわきへ行くたび、見ず知らずの変な人たち(濃い口の仲間ばかりだったので)を受け入れてくれた家族。赤井の家がなかったら、何度も通うことができなかった。
いつでも快く受け入れてくれ、その思い出は深く心に刻まれている。

その赤井の物語を紹介します。

福島第一原発事故が起き、赤井の皆さんは得体のしれぬ恐ろしさに、どこか遠くへ行きたいと強く感じていました。しかし、80歳を過ぎる父親、身体に麻痺をもつ弟、そして老犬と暮らす中、家族全員が当てのないどこかへ行くことは不可能でした。
どこか遠くへいきたい。見えない、恐ろしい何かが降り注ぐ中、それでも動くことを断念せざるを得ない絶望感は、僕らの想像が及ばないところにある。どうしたらいいのか分からず毎晩泣いていたといいます。

福島では多くの人が同じような恐怖と絶望を抱いていたのでしょう。
僕は避難所でマッサージして回ったのですが、生まれたての赤ん坊と一緒に避難している方、家をなくして途方に暮れいる方、、、多くの人たちが問答無用にそこにとどまらざるを得ない現状に、行き場のないやるせなさを感じました。ただただ真っ当に生きてきた人たちをここまで追い込んでいるのは何なんだ?と。

それでも人はたくましいものです。
赤井では、それじゃあと、一日一日を大切にするため夜を晩餐に。毎日大好きなお酒を合わせたメニューを考えて、きれいにお品書きを書いて楽しみを見出していたのです。

僕は福島に通って、いくつも記憶に残る場面に出くわしましたが、この話ほど原発事故の悲惨さを物語るものはありませんでした。社会には理不尽なことは無数にあります。均衡が取れていて、誰も苦しまなければ日常は流れていくでしょう。しかし、ひとたびその均衡が崩れたとき、あまりにも負担が片方に偏ってしまうのならばそれは当事者皆が考えるべきことだと思います。
国や自治体、あるいは東電をいくらなじってみても、それは責任の擦り付けにしかなりません。他方では社会全体の合意もあったはずだから。
少なくとも首都圏内で電力を使っていたのならば、その無数の絶望感に想いを寄せるべきと思うのです。それも関係ないというのならば、ちょっと偏った言い方になるかもしれないけれど、危険を一方的に押し付けるという一種の差別ではないでしょうか?

この苦しみを肌で感じ、一緒に涙したことはとても貴重な時間でした。それをお酒で流して、笑い話に変化したのも、あの時、あの場、まだまだ恐怖が支配する中で、人のたくましさというか、生を紡ぐ光を垣間見た気がします。

マッサージのボランティアだった故、避難所ではそたくさんの話を聞かせていただけました。慰めの言葉など軽すぎて声にもなりません。それでも身体からほぐすことを心がけて、なんとか受け止めようとしていたことも思い出されます。

今、様々なシーンが浮かび上がってきます。
割れたアスファルトの常磐道、飯館村を通過するときの緊張感、首輪を外された犬たち、、、
忘れてはいけない。

僕らは経験者、目撃者として次の世代の人たちが同じ思いをしないように心を砕くべきです。
無関心が罪だということを、僕の経験した福島は語っているからです。


このページのトップに戻る

  1. トップページに戻る
  2. 次のページへ

プロフィール

kazooさん

Author:kazooさん
整体師 健康管理士

楽園をつくっています

一人宗教家
勝手に思想家・哲学者
生命探検家

最新記事

カテゴリ

最新コメント

最新トラックバック

月別アーカイブ